各々の関係者には、それぞれに経緯(裏話)があると思いますが、これは福島キャンパス担当・戸上から見た経緯であることをご了承下さい。
確実にきっかけの一つとして挙げてよいのは、私・戸上が震災後、個人的に福島に出入りしていたことでしょう。
名古屋から福島県飯舘村に嫁いでいた友人を、震災後に私が訪ねた時から、私と福島との関係が始まりました。まだ飯舘村が避難地域に指定される前でした。大学院では放射能測定の経験もあったので、知識に明るかったことも大きかったと思います。
それ以降、たびたび福島県を訪れては、いろんな人に会い、いろんな話を聞かせて頂くことができました。しかし、どうしたらいいのかなんて、私にも分かるわけありません(T_T)。何もできないまま、最初の1年が過ぎていったという印象でした。
2年目を迎えて、何もできない自分に途方にくれていた私は、それまでに出会った福島の3人のキーパーソンの方に、改めて話を聞いてみることにしました。この時、3人には個別に全く別の場所で話を聞いたにも関わらず、話の内容はどれも共通していました。「自立したコミュニティを作っていかないといけない」というものです。さらにそのコミュニティ構想に共通していたのが、食の自給、エネルギーの自給、そして福祉の視点でした。
この時、私ははっきりと感じることができました。私の役割は「答えのない未来に向かって、次の一歩を一緒に模索し、一緒に歩み出すお手伝いをすることだ」と。
(ずっと以前から私はそうだった、と自覚したということでもありました。だから、10年以上もの間、「身の丈の起業」をコンセプトにする起業支援ネットに関わり、この度、起業の学校福島キャンパスを担当することになったのだろうな、と今さらながら思います。)
2年目以降は、その3人のうちの1人のところに入り浸って、その構想の実現へ向けてお手伝いをしていました。
震災4年目のある時、名古屋に居るときに、起業の学校の副校長と「福島はどう?」「来年どうするの?」という話をしていた時だと思います。
福島では、事実も思考も思想もごちゃまぜになって、何が正しいのか間違っているのか、よく吟味しないと分からないし、そもそもそれを分かろうと努力しないといけない日常は、日々の負担が大きいだろう、という気がしていました。
「各人に理念があるかないかで大きく違いますよねぇ。理念がないと、変な思想にころっと騙されてしまいそうです。」そんな話をしたと思います。
また、副校長とは、福島支援や起業の学校とは別に、重症心身障害児や医療ケアが必要な障害児に対する活動支援に、近年一緒に取り組んでいた関係もあり、福島の重症児ケアの現場がどうなっているのか、という話題をよくしていました。しかし、実態は「よく分からない」というのが正直なところでした。「仲間を見つけていかないとね。」と2人でいつも思っていました。
そういう会話をしていたところに、「起業の学校を福島でやろうか。」という気運が沸き上がりました。もしかすると起業支援ネット側には最初から構想が描かれていたのかもしれませんが、私にとっては、この時の会話が最初です。
起業の学校は、主催者側にとっても、理念を持った仲間とつながれる意義深い場所です。「これだ!」と私も思いました。
その後、話はトントン拍子に進み、校長は凄く乗り気で(^^)、事業計画を立て、採算ラインを計算し(「起業」を目指す学校が、赤字垂れ流しでは、元も子もないですからね)、福島キャンパス実現へ向けて大きく動き出したのでした。
(戸上)